第6回

全速前進




 予備審査はどうにか無事終了した。
 基本的なシステムに関する指摘は殆ど無かった。
 現場の対応に不安は残るものの、本番でもきっと上手くいくに違いない。
 希望的観測だが、そう考えてくると、智哉の頭を押さえつけてきた憂鬱が僅かに薄らいだ。

 かつて、西沢に少しでも早く認証を取得したいと言ったことを思い出した。現状を考えると 全く冷や汗ものだった。
 もしも西沢が、あの時に、今の自分の気持ちを読み切っていて、智哉を牽制してくれていたの だとしたら……、少しばかりはコンサルタントという職業を見直してもいいと思った。
 そればかりでなく、西沢は、審査登録機関と綿密な連絡を取ってくれたり、審査の準備資料を 揃えてくれたり、本審査に支障が出ないように色々取り計らってくれた。

 気の抜けない毎日が続いていた。しかし、アサテックの雰囲気はいつもとすっかり違っていた。


 夏が去り、紅葉の季節が始まった。

 本審査の日が近づいてきた。最初のリハーサルが行われたのは秋晴れの日だった。
 智哉はマニュアルを手に、水野と共に審査員を想定した正広に従った。営業から技術へ、 製造から検査へという順番だ。もとより毎日馴れきった職場であり、仕事であった。
 智哉は横目で年下の部下の花田を見た。朝から何となく疲れた顔をしているだけで無表情だった。 もともとこの人はあまり個人的な意見を言わない。無口というわけではないのにそんな印象を 受けるのは、冗談を言ったり、仕事に関係ないことをあまり話さないからなのかもしれない。

 彼は営業管理課長として、営業と検査課長を兼任している。小さな組織ではやむを得なかった。
 審査では先頭と最後を締め括らなくてはならない。
 彼は胸に動機が打った。落ち着け、落ち着け、自分自身に言い聞かせた。

 会議室に戻り、総括が終わると、智哉が近づき、

 「花田君、あんまり緊張するなよ」
 といった。
 花田の背中には顔と同じくらいに汗が流れていた。

 いよいよ本審査の日が迫ってきた。
 花田は眠れない夜が続いた。




 本審査の前日、智哉はホテルに審査員の古田を訪ね、夕食に誘った。
 彼の目はぎょろりと大きく、目袋は垂れ、鼻の脇の皺は深かった。
 「毎朝3キロは走るんだ」関西訛りがあった。

 なるほど顔の艶は良かった。しかし、老けた額と頬には老人性のシミが濃く浮かんでいた。 智哉に出した名刺には主任審査員古田登志男とあった。

 予約してある仏蘭西レストランを訪れた。

 「いらっしゃいませ」

 智哉の姿を認めて奥から出てきた女主人が、彼にも軽くお辞儀をした。

 「うむ」

 手をあげると、奥へとずんずん進んでいき、彼女が案内しようとしたリザーブ席を無視して、 勝手に窓際席にどっかりと座り込んだ。
 後ろに附いていた智哉も、黙ってそのテーブルの席についた。
 店内にはピアノの演奏が静かに流れている。
 大学病院が近いため、智哉も顔見知りの医師のグループが、静かに食事をしていた。

 暫くしてメニューを持ったウェイターが現れ、恭しく2人に手渡す。
 仏語で書いてあるメニューを見ていたが、彼はぶつぶつ言いながら直ぐに閉じて言った。

 「コースにでもするか」
 煙草を取り出すと、投げやりな視線を送った。

 「はい、ではどのコースにいたしますか」
 ウェイターの問いに

 「本日のお薦めでいい。そういうのあるだろ......こんな田舎でも」
 最後の言葉は聴き取れないくらいに小さかった。

 「かしこまりました。お飲物は何になさいますか」
 ウェイターが食前酒を訪ねる。

 「とりあえずビールにしようか」
 いつものように、そう口にした。それまで黙っていた智哉が、少し慌てながら割り込んだ。

 「折角ですから、ワインを頼みましょう」

 「ああ、よろしく」
 と鷹揚に返事をする。

 暫くして女主人がワインのボトルを持って智哉の側に近づき、ラベルを向けた。
 〈CH・レオヴィルラスカーズ〉の文字が見える。

 智哉が頷くのを確認すると、シャトー・ラギオールのソムリエナイフを開け、手慣れた動作で コルクを引き抜いた。軽やかな音がすると同時に彼は、グラスを手に取り、目の前に差し出した。
 彼女は瞬間、智哉をちらりと見て、ためらいの表情を浮かべながら、琥珀色がかった褐色の ワインを五分の一ほど注いだ。
 顔を上げた女主人の目が彼と向きあった。
 怪訝そうな彼の表情に彼女の経験が素早く反応を起こした。
 にこやかな笑みを浮かべながら、グラスにワインをいっぱいに満たした。そして、

 「どうぞ」
 と低い落ちついた声で勧めた。
 彼は頷くとそれを一息に飲み干し、空になったグラスを再び差し出した。

 「美味い。なかなか良い酒だ」
 両人の所作は智哉に大きな啓示を与えた。
 そうこうしているうちに酔いが回ってくる。
 彼は料理に対しても、年齢を感じさせない健啖ぶりを見せた。スプーンですくって飲みだした スープ皿をやおら両手で持ち上げると、一気に口に流し込んだ。そして、子牛のステーキをまるで 格闘するかのようにカチャカチャいわせながら、たちまち平らげた。
 明日の審査の話はしないほうが良いと、気を遣っている智哉にかまわず話し出す。

 「私はね、この世界では最長老だよ」
 得意げに微笑む。

 「ほう、そうですか」
 と、智哉は次から次と出てくる彼の自慢話に相槌を打ちながら聞くことになった。
 すると不思議なもので、何となく彼の話と同調して明日の審査が上手くいくような雰囲気に 思えてきた。
 彼も満面に笑みを浮かべている。

 安心しかけた智哉の意識の中で、警報音が響く。先ほどのテイスティングを思い出したからだ。

 「何だ。ケチな注ぎ方をしおって」
 という気色ばんだ声を浴びせられる自分の姿が目に浮かんだ。

 「もう一杯ワインをいかがですか」
 智哉が注いだボトルが水平に近い角度になった。

 「おう、もう一本もらおうか」
 彼はまるでウガイでもする時のように、上を向いてからからと笑っている。
 アクの強い老人だった。




 本審査の当日、朝礼に社員全員が緊張した面持ちで揃っていた。

 「いよいよ、本審査です。皆さん頑張ってください」
 正広の声も幾分震えている。

 智哉の合図で水野と反町が全員の手に茶色のビンを手渡した。

 「それじゃ、いくぞー」

 「オー」

 ドリンクで出陣式を終えると、全員が配置に就く。
 社長が審査員の古田をホテルに迎えに行っている間、慎吾と谷村、水野、花田の4人は机に ならべた文書の最後の点検を始めた。ISO9001の要求項目を智哉はじっと目を閉じて、何度も 反芻した。

 古田は2階の会議室に入ると、正面窓側の椅子に着いた。彼は痩せた口元に微笑みを浮かべていた。 機嫌は良い様だった。

 オープニングミーティングが始まった。
 古田は審査の手順を慣れた口調で説明し終えた。
 今まで幾度と無く繰り返された、気楽な作業に違いない。
 彼の目が机上の文書の列に向けられると、訝しげに変わった。

 「規定類は何処に有るんですか」

 茶を啜る音を聞かせながら、品質管理責任者の智哉に質問する。
 「私どもの管理文書は品質マニュアルと規定が一緒になっています」

 「ほ〜う」

 「IQAのQuality Systems in the Small Firm(小企業ガイド)の品質システム(4.2)には individual documentsはquality manualと合体できるとあります」

 「ふむ......この一冊だけですか」
 パラパラと捲りながら珍しそうに見ている。

 「このマニュアルには文書番号が有りませんね、しかも、ページ毎の改訂履歴の欄も無い」

 「はい。私どもは小さな会社ですから文書に番号で識別する必要は有りません。それに 履歴一覧表が有りますから、ページ毎の履歴は不必要です」

 古田は不機嫌そうな表情をしたが、それが要求事項のどこに有るかを智哉に言われて、頷いた。
 (まあいい。最後は俺の言う様に納得させる)
 次にスコープの確認が行われる。

 「それから、ええと、板金部品の製品設計で9001ですね」

 「いいえ...」

 自然と顔が息を呑む表情になった。
 智哉は言ってから気が付いた。
 (......そうかウチのマニュアルをまだ読んでいないのか。)
 審査員は、事前に審査する企業の文書に目を通すのが常識であった。昨夜のワインがその 最後の時間を無くしたに違いない。

 「私どもは製品設計ではなく、工程設計の9001システムです。これは―」

 「何だって、工程設計の9001〜何や、それは?」
 今度は古田の顔色と、言葉つきが変わった。
 「そないなもんは、聞いた事が無いね」

 「しかし、この件は既にに本部で確認していますが」

 「私はなんも聞いてはおらんよ」
 表情が硬くなってきた。

 「しかし、書類審査と予備審査でも何も問題は有りませんでした。確認してくれませんか」

 (この若造が......)彼は段々神経が尖ってきた。
 「何を言うか。その必要はない、私はIRCAの主任審査員の資格を持っとる」
 カードをちらつかせながら、
 「審査は私の一存で進める権利があるんや」

 彼の態度は驚くほど頑なだった。

 「ちょっと待ってください。あなたはそう言いますが、先ほど説明したように本部に 行ってですね......」

 険悪な雰囲気になりそうな気配に、正広の興奮した言い方は逆に火に油を注ぐ結果になった。

 「私は七十を過ぎたこの年まで審査員をやってるが、こんな仕事は始めてや」
 書類を持つ手が震え始めた。
 「前回は四菱電気で、その前はIDMの審査をやってきたが、こんなん小さい会社の審査も 初めてや、マニュアルを作り替えて半年後にでも、もう一度審査を受けたらどうや、それが ええ方法と思うがな?」

 両手を重ねあわせて紳士的な態度であったが、眼は下からすくいあげるように智哉に当てていた。

 「いいえ、そのつもりは有りません」

 智哉は考えを口に出した。
 「まず、ISO9000−2:1993及びISO/FDS9000−2:1997の4.4. 1 設計管理に工程設計が設計管理の対象になる事が説明されています。次に、ISO9004−1: 1994 (8.4. 2C)「工程仕様に関する項目」に設計審査項目として、工程設計で決定される 内容の設計審査の説明が有ります...」

 古田は思索するように、眼を半分瞑って聞いている。

 「そして、ISO9004−3:1993【7.2 製品企画書】の備考2に設計・開発という 用語には【製品設計】と【工程設計】が含まれています。英語の原文ではNOTE 2-development of a process design that meets product requirements. です」

 古田は智哉の言葉の用意に驚かされたが、油断のならない物も感じた。
 「【8.5. 2 工程及び設計の審査の要素】では、プロセス製品では設計の中で特に 工程設計が重要であると解説しています。 【8.5. 2C】では工程設計で決定される内容の 設計審査の説明もされています」

 「 私はガイドラインは読まないんや!」

 苛立ちが増して、思わず声が大きくなった。
 「プロセス・デザインの考えは、QS9000でも取り入れられているのはご存知でしょう?」  智哉は間髪を入れずに言った。水野や正広の不安げな顔が目に映ったが、もう自分でも 止められなかった。  古田は後頭部が疼き出した。血が頭に上ってくるのをはっきりと意識した。向かい合う 全員の不安な眼差しが、逆に自分への蔑みに映った。  それを見た瞬間に古田はカッとなった。(どうもこうもない。冗談じゃないぞ!)

 「私は認めない、審査は中止する!」

 部屋の中に一瞬の沈黙が落ちた。
 こんななちっぽけな会社の審査をやらされる、自分が惨めだった。しかも、こんな風に理論武装 で反撃されるのも初めてだった。
 「私はね、とうに七十を過ぎとる。いわば、棺桶に片足を突っ込んでるようなもんや」
 古田は上半身を反らすと、眼をむいた。

 「あんたは認証が欲しいんやろが、私にはどうでも良いことや。今日は帰る!」
 上ずった声だった。

 彼の苛立ちが、ここまで来て火がつき、敵意に燃え上がった。


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