新たな進路
不意に思った。
(この審査員は自分の経験に無い状況に迷っている)
現在の彼の審査機関での位置や、忍び寄る老境が、この男の新しい知識の吸収を妨げているの
だろうか。
彼はこの直感を疑わなかった。自分に霊力が有るかのようにそれを信じた。
古田はちょっと沈黙した。
古田は審査スケジュールの時間切迫を理由に彼を早く納得させようかと思った。しかし、
それではこちらが大人げないような気がした。もとより、友部代表と智哉の話し合いは周知の事だし、
その日は自分も顔を合わせている。智哉も存分にその事を承知の上で審査に望んでいるのだ。
相手は次第に審査の責任の話に露骨になってきた。これも智哉の方が役者が一枚上だったといえる。
つまり、途中で古田が退席しないように話を持ってきているのである。
「そないに言うなら、本部に電話しようかい」
「アホらしい。とんでもない爺さんや」
「本審査は中止ですか?」
「大丈夫。オレだって4年間もコレに関わってきたんだ。それより、おまえ達こそ、しっかり
しろよ」智哉は自分でも、口調が強いのが分かった。
その言葉に偽りはないつもりだった。けれども初日の、それもまだ午前中の段階で、自分が想像
以上に困難な状況に立たされていることを思い知った。
手首をめくると、腕時計は10時45分を指している。古田はまだ戻ってこない。
座っていて背中が痛くなった頃に、足音が聞こえてきた。
「うん、まあそのう......」
「言い過ぎた言葉をお詫びします」
「よっしゃ、ほなら、始めようか」
技術部の説明も上手くいった。先ほど問題になった工程設計を西村秀一がCAD/CAMの
シミュレーション、デザインレビュー、 設計検証、妥当性の確認と説明していく。古田は納得
したように画面を見詰めて、細かくメモを取っている。
一日目の審査は無事終了し、二日目も問題なく終了しようとしている。智哉は、まだまだ
これからだ、安心してはいけないと思いながら、期待半分、嬉しさ半分で身体の中がぞくぞくと
震えた。
製造部を中心に検査の審査が行われた。
審査員が、智哉らと第一工程の打ち抜きエリアに入るのが見えた。花田はそっと洗面台に行き、
水道の栓を捻ると顔を突っ込んで、水をがぶがぶと飲んだ。持ち場の検査場の椅子によろめくように
腰を下ろすと、深い息を吸った。自分は何か重大な失敗をしでかすのではないかという不安が、
心臓の鼓動を高くさせた。不安は恐怖に近くなっていた。この場から逃げたい、誰かと替わって
もらいたいという願いだけが、頭の中を占拠した。
古田は機嫌良く審査を続けていた。智哉と水野、谷村課長らが行列のように従っている。工場の
通路はこの日の為に奇麗に塗られ、秋の陽に鏡のように光っていた。窓の外は麗らかな景色である。
あと数分もすると自分の番である、花田は審査の練習の時の問答を、必死で暗唱し続けた。
今まで何度も繰り返し、慎吾と練習した事なのだ。
ふいに目の前に黒い影が動いて、古田の顔が見えた。眼を細めて微笑しながら、穏やかな口振りで
質問を始めた。初めの2、3の質問になんと答えたか覚えていなかった。計測機器の点検校正の
質問になった。
「花田課長は風邪で体調が悪いようです......それは社内校正です、これが校正用2次原器の
国家トレーサブル証明書です」
智哉は次々とめくられるページとそれをチェックする審査員の指の動きをじっと見つめていた。
古田は流れるように目を通していた。感心するほどの滑らかさでペンを走らせる。時々、
「ふむふむ、なるほど、ここは何んだ」「どうゆう意味だ…」、と一人ぶつぶついっていた。
しばらくして、
「大体こんなもんか」
そう言うなり、審査結果の書類の末尾に署名をいれ、赤いスタンプをもったいぶった手付きで
押した。
その一瞬、向かい合わせで借りてきたネコの如く畏まり、審査員の手元を睨んでいた者は、
そろって全身が解き放たれた。
「お世話になりました」「これからがスタートですよ、頑張ってください」最後の挨拶が終わり、
駅に送るために正広が運転する車を見送った。
「やっと終わったな」
谷村課長がドアを開けて入ってきた。本審査の無事終了を工場の全員に伝えてきたのだそうだ。
「皆さん、ご苦労さまでした」
「やっと終わったかー」
「ふぅ〜、疲れたぁ〜」
そんな会話も妙に落ちついて物静かだった。全員が資料や机を片付けながら、安堵感と喜びの
感情の深さを感じていた。陽がかなり翳ってきて、窓の外の夕闇が晩秋の気配を見せていた。
部屋の冷気が妙にリアルに感じ始めて、今ごろになって歯の奥がカチカチ鳴った。
智哉は、訳の解らない寂寥感に襲われた。目の前の、痩せて異様に眼を光らす老人は、
二年半前に亡くなった父と同じ歳だった。職人気質で頑固だった父の顔が、突然現れたように思えた。
目まぐるしく動いていた彼の思考が停止した。
古田の口が声も無く、ただ、ぱくぱくと動いている。
智哉の直感であった。
「それなら、貴方が帰る前にロールスの正式な考えを、本部から聞く事にします......」
「審査機関と言えど、アサテックは顧客のはずですからね」
彼はタバコを取り出すと、紫煙の縺れを眺め始めた。はったりというのは、常に相手に
見破られる危険があった。いま、それが何処まで通じるか、その判断が迫られていた。今だから
言える話である。 智哉は椅子の上で反り身になると、指を組んで待った。
古田も一種の不勉強を彼から指摘されて嫉妬を掻き立てられ、それで審査を打ち切ったと宣伝
されるのがいやだった。奇妙な心理だが、実は鷹揚に構えた古田の態度の裏にはそんな見栄とも
敵愾心ともつかないものが在った。
指が熱くなる頃、漸く煙草の灰をもみ消すと古田は立ちあがった。
階下の電話に案内するため、水野がドアを開けた。
慎吾の顔には苦笑が浮かんでいたが、顔色は蒼い。
事務所に居て、異常事態に気が付いた藤原ひとみ、反町、桃山の三人がドア越しに顔を見せた。
水野や谷村が強ばった表情で説明している。
古田は、電話が終わった後も、しばらく受話器を持ったまま座り込んでいた。水野理恵子が
ドア越しに、そっと様子を窺っているのにさっきから気が付いていた。しかし、そのまま
座り続けた。
審査のスケジュールが遅れる事は彼自身承知していた。しかし、本部の回答にも素直な気持ちに
なれなかった。古田は屈辱で身体が震えた。彼より三十近く若い智哉に対する強烈な嫉妬から、
それは出ているとも言えた。
(責任は全て私にある、審査が不合格となるのも運命だ。私は男の命が炎を上げて燃焼するような
仕事をさせてもらった。失敗しても悔いはない)
一時間が、智哉にとっては倍ぐらいに思えた。
古田は部屋に入ると、照れ臭そうに少し笑いかけようとして、慌てて頬を引き締めた。
彼はどんな風にものを言ったら良いのか、戸惑ったような様子をしていた。
全員が彼の言葉を待って口元を見詰めた。
「ええやろう、認めましょう」
古田は目の前の人間に感情を出すのが都合が悪い、といったような言い方だった。
智哉が立ち上がると、その場の全員が、深い安堵を覚えながら一斉に頭を下げた。
正広は質問された通りに4.1経営者の品質方針から答え始めた。
堅苦しさが残る雰囲気も、営業部の審査に入り 田村絢子の滑らかな説明に、古田の態度が
次第に軟化し始めた。笑顔を見せながら頷いている様子に、慎吾も水野もほっとした表情をしている。
三日目、いよいよ審査最終日となった。
検査課長の花田は何時もと勝手が違った。それは、花田が見慣れている作業ではなかった。
頭の中は混乱し始めている。ノギスを持つ手が震えていた。図面が、違って見えて仕方が無かった。
そういう錯覚に似たモノが彼の目と体に起こりつつあった。
審査は順調に進んだ。曲げ工程から溶接工程である。そして仕上げ工程の次は検査工程であった。
花田は怯えた心で審査員を待った。
その時、花田は言葉に詰まった。その計測機器は社外校正だったか、社内校正が本当か迷った。
何度もやっている事だったし、誰でも知っている事だった。長い沈黙は許されなかった、何か
答えなければならない。
「グッ......」
声の代りに脂汗が吹き出した。
古田の後にいる慎吾が手を上げて何か言った。水野と谷村が顔を見合わせているのが、他人事の
ように感じる。花田の頭の中は真っ白になった。
智哉は古田の横に進むと、計測器メーカーの書類を見せた。古田がそれを横目で一瞥した。
このとき、智哉は隣の古田の横顔に何気なく目がいき、その表情にはっとした。
ようやく審査報告、クロージングミーティングとなり、全員に古田が説明を始めた。
その書類はアサテックに業務改革と成功をもたらすはずであった。ふいに息苦しくなった。
それらは今まで自分たちが試行錯誤と長い時間、そして夜遅くまで残業して作り上げ、準備した
物だった。
「うん、よし」
さて、審査が終了して品質責任者のサインを書く段になって、ショートしていた智哉の
思考回路もようやく通常に戻った。くちびるだけでなく、喉の奥までがざらついていることに
ようやく気がついて、水野にコーヒーを頼んだ。
彼女の表情に、安堵感よりもまだ緊張感が残っていることにも気がついていた。
玄関に立って智哉は夕空を眺めた。陽が西に落ちて、空の雲が赤く染まっている。薄蒼い空を
背景に、雲の色と形がまるで絵に描いたようだった。3日間の長い審査の後の軽い興奮が彼を
捉えていた。
背後の声に振り向くと、ドリンクを手にした慎吾が立っていた。受け取って、一気に喉に
流し込んだ。さっきはまるで味が分からなかったコーヒーと違って、甘く爽やかな苦みに思わず
せき込んだ。鼻の奥がツーンとした。そんな智哉の背中を慎吾が労るように叩いた。
正広も会議室に戻り、スタッフ全員が座った。
『ISO9001認証取得』智哉にとって、目的地であり安住の地であったはずだ。しかし、
この瞬間から本当の「アサテックの闘い」が始まった。 今までと全く異質の品質管理システムを
習得、確立するための闘いだ。これによって、世界に通じるための長い苦闘がはじまった。この
品質管理システムを、智哉は自ら選んだのではなかった。取引上の、世間の成り行きによって、
ISO9001認証取得が課せられたのだ。
精密板金業界で初の9001の取得であった。
アサテックの同業他社の下請け企業は、未だに関わっていない様子だった。ライバル会社 エーダイの社長中外も沈黙を守っている。
新聞記事掲載地元新聞をはじめ、工業、経済新聞に中小企業のISO9001取得記事が次々と
掲載された大手からの引き合いが入るようになった
次第に社員の意識に変化が見られるようになった
ISO9000sの取得を目指す企業の見学申し込みが増えてきた。
金融機関の注目(銀行・証券会社)もされた、今まで付き合いの無かった銀行から取り引きの
話があったり、証券会社からは将来の株式公開の話までされた。
アサテックに訪れた同業者が見学の後に呟いた。
「羨ましいですね」
お世辞を言うつもりも無く、自然と口を衝いて出た言葉だった。
「ISO9001を導入済みなんですから、立派な先端企業です」
「何にしても、先駆者の苦労は大変なもんですね......」
智哉は、自身がこのシステムを作り上げたアングロサクソンが考えるようには、受け入れられ ないことを感じている。それでも、自分自身に出来るだけの努力を続けるつもりだった。
半年が経とうとしていた。あの本審査の時、会社ぐるみ緊張し、それこそ胸の心臓が張り裂けん
ばかりに踊り狂う状況で、頭には全く別のことが浮かんでいた。その時はぼうとして、見えなかった
物が現れた。
智哉は突如として閃いたのだった。それはばらばらだったクロスワードから、隠れていた言葉が
浮き上がった瞬間のようだった。雷に打たれたような衝撃を受け、智哉は立ち上り目を見開いた。 彼は再び、無謀とも言える衝動に突き動かされていた。アサテックに4年間の苦労をさせ、認証取得の際には至福に酔いしれる恍惚感をも与えてくれたISO9000sに対して、「それなら他の人にも感じさせてやろう」と、立ち向かってしまったのだ。
ISO取得支援事業部が活動を始めた。
このシステムがバブル以降の日本企業に、「国際標準の厳しさと大競争時代への警鐘」と言われる 中で、彼は自身の精神構造の脆弱さと、曖昧さをおもいきり叱咤された気がした。
今、日本の中小企業が変わらなければいけない状況も、下請け零細企業の抱える悩みも、その どまんなかに居る智哉には、迫り来る『グローバルスタンダード』の足音が痛いほど耳を 打っていた......。
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