回想
それにしてもなぜ、この会社はここまで追い込まれたのだろう。
プレス板金加工業としての激しい受注競争、目が回るような納期の前倒しに残業と休出が続いた。単価切り下げのため
の工程短縮と過度の外注指導、リストラの名目で行われた配置転換、人員整理、それに決定的なISO9000sの勉強不足。
さ迷っていたいくつかの視線が、しだいに机の端に座った男に集まっていく。視線の先にいる、痩せて神経質そうな
男が立ち上がった。
「別に私だけが悪いんじゃないんです」
事務局責任者を勤める品証部の平田課長が沈黙を押さえ切れなくなって、自分の不手際を弁明し始めた。
次のS課長の報告も同様だった。突然、座の中央に座る男が激しく机を叩き、立ち上がると、語気を荒らげて
彼らの怠慢をなじり始めた。スーツのボタンが弾けそうなほど、恰幅のいい栃木工業社長の鈴木健一だった。
「アイエスオーを取るのにいつまでかかるんだ、いくら時間をかければ良いんだ」
一転して雰囲気が険しくなってきた。平田課長は薄い下唇をちょっと突き出しただけで、何もいわない。
「取引先の松上電器の購買担当者には、今年中に認証を取ると言ってしまった」
社長の意気込みは有るのだが、自分以外がやるものと決めてかかっている。しかも、その動機が......。
「現場に行って、担当者の話を聞くんです。で、話し合いの中から彼の部署の仕事の流れを纏めるよう、頼んでください」
「そして、ただ待つんですか。彼が忙しくて出来ないと言ったらどうするんですか、私がやるんですか」
「そうやっておまえは三年間、無駄飯を食ってきたのか」
「ほかに良い手段は有りません。纏めてもらえるまで、協力を頼むのです。事務局として」
「......」
性格的に妙なところも有ったが、この人物も有能な筈だった。取引先の大手企業から指導を受けながら、自主的な
取得活動を進めてきたこの会社の中で、彼も空回りを続けてきたに違いない。
「ところで、アサテックさんのところではどのように進められたのですか、問題は何も無かったのですか」
社長はようやく興奮が収まったらしく、ゴホンと空咳をして質問した。
「別に秘訣は有りません。それなりの苦労もしましたが、何とか二年前9001を取得出来ました」
20歳以上も年長の鈴木社長に丁寧な言葉使いで応じた、言葉ばかりでなく表情も態度も穏やかである。
「いいですか、平田課長、文書の表面を撫で回すのは、今日、この場限りで止めてください」
智哉の目は二人の同族経営者と部長たち、幹部に向けられていた。
会議の後、智哉は平田課長を呼んだ。
「このまま、取得準備を進めるには障害が多すぎます」
まず、現場の非協力を嘆いて、自ら進んでやろうとしない態度に問題が有った。自分の出来ない事の
責任転嫁が堂々と行われている。
「こんな事ではいつになったら認証が取れるかわかりませんよ」
智哉は思わず口から出た強い言葉で、担当者に詰め寄った。
「状況は深刻です、解るでしょう?」
「ええ、そうですね。しかし、...」
やれば出来るのに、たいがいぐずぐずしている。
彼は、ISO9001の取得支援で企業内の改革とマネジメントシステムの構築を勧めてきた。一般的な
コンサルに比べ、はるかに実践的な指導を心掛けてきたし、現場にも作業衣で何度も足を運ぶ。文書作成のため、
自ら5時過ぎまでワープロのキーを叩き、共に汗を流しながら、その企業独自のシステム構築をしてきた。
実際に他の企業ではそれが当たり前だった。しかし、ここにいる人たちはその逆であり、それを求めてもいる。
困惑した表情で言い訳を続ける担当者の姿が、ふっと5年前の自分に重なった。
職人気質の父の方針で「技術さえ良ければ、仕事は回ってくる。板金屋は20人が限度だ」とする考えを守って
来たが、その父が体の不調を訴えて入院、経営を任された兄弟経営者に、時代は大きく変革を求め始める。
アサテックは、バブル崩壊後の、取引先の発注減、管理強化による経営の将来に危機を感じていた。
父が築いてくれた経営基盤や資産に感謝しつつ、今までのやり方に限界を覚え、将来の方向を模索していた。
しかし、智哉の脳裏には漠然とした不安が消えなかった。「このまま設備の導入で、ライバルと競争を続けて
いって良いのだろうか?」「他の業界からの参入が続いている現状では、結局資本力で勝負が決まってしまう」
「何か他のもので、自社の優位性を発揮出来ないものか?」
93年に入ると顧客のISO9000sへの取り組みはいよいよ具体的に動き始めた。ヨーロッパではEUが発足し、
輸出企業はその対策に本腰を入れ始める。
ISO9000sは企業の品質向上能力を必ずしも保証するものではないかもしれない。しかし、取引先の管理
自立度合いのバロメーターと見る事も出来る。取引先の品質対応能力が判定される。発注企業自身の競争力を
維持・強化していくため、競争力が高く各種の対応能力に優れた取引先が求められる。先進発注企業は自社の
利益に叶う管理能力を持つ取引先に発注を絞り込もうとしている。
この時点でこれらをはっきりと自覚している企業は非常に少なかった。
社長の正広が彼には珍しく、興奮した口調で事務所に入ってきた。主要取引先日本シグナスの共栄会から
戻ったらしく、スーツにネクタイ姿だった。
「改まった会合では、もう少しましな服を着なよ」 営業の間 明(はざまあきら)と智哉と三人で、新製品の
図面を見ていた慎吾の言葉に、「え..」と気を抜かれた表情で、自分の姿を見回すと、
「......ま、いいじゃない」
のんびりした彼の表情に、ワープロをたたいていた、水野理恵子がクスリと笑って目を伏せる。
「着飾ったり、贅沢をしないのが我がアサテックの伝統ですよね、社長」
間が慰めるように声をかけた。
「ところで、何がはじまるんだい」
「あっ、そうだ」 大型封筒から書類を出しながら、「アイエスオーだよ!ア・イ・エ・ス・オ・ー」
正広は良く解らないことには、いつも大袈裟な態度をとる。そして、ぽいっと、書類を智哉に投げてよこした。
「あー、ISO9000の勉強会のことか」
「来月から月に一回、下請企業を全社集めて、アイエスオーの講習会をやるそうだ」
「へー、いよいよ本格的になってきましたねー」
「間君、のんびりしてちゃいられないよ。全体的な勉強会のほか、何社かの下請企業には直接指導に
来ることになった」
「まさか、うちにも来るんじゃないんでしょうね」
「そのまさかだよ」
書類に目を通しながら、智哉が答えた。
「うちは板金加工の外注として、二年前から日本シグナスの無検査指定工場になっている。スケジュール表では、
うちは最初の訪問企業に予定されている」
「アイウエオの順か、うちはこういう時、損だなー」
「そんじゃ、いつものように、新しい事は技術部長にお任せします」
みんなが自分の持ち場に戻ろうとした。
「いやいや、ここには、経営者は必ず出席願いますと書いてありますよ、社長」
「ゲゲッ」 正広がのけぞった。
「それから、営業部の責任者も同席しろと書いてある」
「オー・マイ・ゴーッド」
大袈裟に椅子から転げ落ちると、営業部長の慎吾が呻きながら十字を切った。
「おめーいつからそんなに信心深くなったんだ。しかも、耶蘇教かー」
「古いなー、社長は。ISOだからちょっとグローバルなギャグを言ってみただけさ。それより、
何でそんな大事なこと早く言わないの」
「んー、聞き逃したかな。だけど、他の協力会社の社長連中も殆ど関心が無かったようだ。アイエスオーの
説明が終わったら、司会が最後の挨拶をしているのに、もう次のゴルフコンペのくじ引きを始める始末さ」
「あのひとたちは、飲むことと、ゴルフのために総会に来るらしいな」
「予定は、来月の13日が一回目で、月に一回から二回。合計5日間になっている」
「アイター、5日間も」
「社長〜」 手帳を見ていた、間が変な声を出した。「来月の13日は金曜日の仏滅ですよ」
「エ、スゴイことになってきたな」
「ところで、講師は誰が来るの」
「品証部の菊知課長が来るらしい」
菊知課長は、もと高校の教師から日本シグナスへ入社した。技術課長、検査課長を経て品質保証部に入り、
ISO9000sの認証取得のため、事務局の実質的推進者であった。準備のため一年半前から、ISOセミナーや
NQAのコンサルタントから指導を受けていた。実直な性格は、今回のポストにぴったりだった。
「オー、大変だ」
「社長!ISOで洒落てる場合じゃないですよ」
頭文字を単純に並べれば「IOS」のはずです。実は、このISOとは、"相等しい"という意味のギリシア語
『isos』からとられたものです。また、ISOの原文は、英語、仏語、ロシア語の3ヶ国語で書かれています。
ISO9000sのコンサルタント、アサテックの浅川智哉が前回の診断状況を説明する長い話を終えると、
室には息苦しいような沈黙が続いていた。数人のメンバーは、誰も言葉を発しようとしない。
強い陽光が幾重にも重なった木の葉とカーテンを貫き、テーブルに置かれた書類の上で踊っている。
お茶を入れ替えた事務員が、横目でこちらをうかがうようにして出ていった。
取得準備の遅れの条件は全て揃っていた。そこへさらに事務局担当者も障害を抱えている。
「期限までに技術文書の下書きを書いてくれるよう頼んだって、出来てこないじゃありませんか」
他のメンバーは智哉が社長の機嫌を良くする処方箋を出してくれるのを、体を固くして待っている。むろん簡単な
答など無い。ただ向かい側に座っている白い髪の老人だけが、時折鋭い視線を来訪者に投げかけていた。かつて辣腕を
振るっていたことが、今でも窺える。顧問である彼のカリスマ性は、いまは息子が手本にしているらしい。
「南芝の商談会でも、取得の暁には発注量を増やしてもらえるよう頼み込んでいるんだ」
「内容はどうでもいいんです、とにかく今年中に頼むよ」
智哉は顔を上げた。驚いたというより、その事実に初めて気づき、はっとした。出来るだけ穏やかに、座るよう
促しながらこの経営陣にも問題のありかを発見した。
「だいたい、私の外に誰も手伝ってくれる者が居ないんですから。」
平田は顔をそらしていった。
すかさず、社長の罵声が飛ぶ。
三年間の苦闘の末、アサテックに相談に訪れた鈴木社長と平田課長は、対照的な態度で智哉を戸惑わせた。
二人に、舶来好きの日本人の特性と、変革期を迎えて乗り遅れまいとする経営者意識の一端の両方を見た思いだった。
さりげない一言だったが、智哉は自分の良心が痛んだ。社長への答えは全てがウソではなかった、が、
まだ本当のことを話す場面ではない。
我が身の取得体験と何社かの指導経験から、この企業への対応方法を模索していた。
コンサルタントとして、ISO9000sの認証を取得しようとしている企業の障害となるものに、自分が
立ち向かうことになった今、義務と責任を強く感じていた。
自身の成功事例を話し始まると、止めどが無くなるというのが、金銭を目的とする指導者(コンサル)の
困った特徴の一つだった。彼にしても自分の成功体験を話したいという誘惑を辛うじて押えた。始まれば、
すぐ、一時間は経ってしまう。それにこの場は、ポジティブな形で話し合いを終了させようと考えていた。
「システム全体を構成する文書を、前回一緒に決めた内容で、出来るだけ進めましょう。奇麗な文書を
作ることや、現場が文句をいわないだろうか、と気をもむ前に、推進担当者のあなたが率先して汗を流すんです」
テーブルの周りにいる人々は発言の真意に気づき、言葉を失っている。
再び沈黙が続いた。そして隣の建物から漏れてくるプレスの音が、太鼓のようにいつ果てるともない単調な
リズムを奏でている。
たった今、痛い思いをして、学んだばかりの教訓を、消さないでおきたいという気持ちがあった。
「一つひとつ整理しながら、解決しましょう」
現場の整理整頓5Sが不足、設備の表示も出来ていない、機械設備のメンテナンスもされず、汚い。
前回の打ち合わせで、予定された作業が全く進んでいない。作成中の文書を見ると明らかに見てくれを意識して、
一部が書き換えられていた。
予想しない訳でもなかったが、取得推進の担当者の不勉強と経営者の無恥に苛立った。
(いやいや、指導が始まって、まだ二回目だ。)
ため息を一つして、浅川智哉は事務局担当者の顔を見つめた。
(この人たちは、認証を金で買おうとしている... 俺がやっている、ISO9000sの認証取得支援というのは、
いったい何なのだ?)
株式会社アサテックは従業員30人、年商3億円の精密板金加工業である。
7年前、創業者の浅川龍太郎が会長に退き、長男の浅川正広(47歳)が社長になった。正広は浅川三兄弟の
長男として、卒業と同時に前身の浅川製作所に入社して、ほぼ30年近くが経っている。その後、次男の智哉と
三男の慎吾も入社し、兄弟三人が父と一緒に家業を引き継いできた。
92年、取引先の弱電通信機器大手企業日本エレクトロとキャナンは当時のECへの輸出対策としてISO9000s
の取り組みを始めていた。外注企業としてアサテックは、未だ自社で取得することになるとは思ってもいなかった。
ゴルフもやらず、趣味らしいものを持たずに、新しい機械設備の購入に喜びを感じていた先代社長のおかげで
タレットパンチプレスのFMCラインやレーザー加工機等最新の加工機械が揃い、同業者に負けない設備を
誇っていた。コンピュータ化にも積極的に取り組み、70年代には既にソフト開発・販売を行っていた。
慎吾や若手社員を中心に社内LANを自社構築し、生産管理ソフトを開発、運用してきた。社内の情報化も
着々と進み、96年にはインターネットのHPを開設することになる。
その何者かを模索しながら、智哉は技術部長として、新しい加工法の開発や新技術の導入を図るため、大学の門を
たたいたりしていた。
グローバルビジネスにおいて、ISO9000sの認証の有無は必ず問われる。
外注企業へもISO教育・指導が始まる。しかし、アサテックは未だその重要性に気が付かない。しぶしぶの
対応でお茶を濁そうとしていた。
「おい、いよいよ始まるらしいぞ」
いつも作業衣姿の社長の外出着は、お世辞にも似合ってはいなかった。
元教師だけあって、教え方には定評が有った。理論と実践を経た自信からか、彼の言葉には重みが感じられる。
検査課長時代の菊知のもとに、不良の言い訳に訪れたときは、たっぷり一時間かかったことを正広は思い出した。
教育が始まれば、みっちり叩き込まれるのは確実だった。
解説
ISO、国際標準化機構(International Organization for Standardization)の由来
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